1.「聖書はどんな本?」

あなたがたは、聖書の中にいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書がわたしについて証言しているのです。

(ヨハネ5章39節)

「聖書」(英語で「バイブル」)は「ビブリオン」というギリシャ語から来ています。その意味は「書物や巻物」という意味です。ですから「聖書」はある意味で「書名のない本」とも「第一の書物」とも言えるでしょう。ではその「聖書」とはどのような本なのでしょうか。

まず、「聖書は比類のない本」です。時に、ベストセラーとなる本が現われますが、殆どは一時的なブームで終わってしまいます。かつては人気を博したベストセラーも、今は話題にさえのぼりません。しかし、聖書は時代や民族や国籍を超えて実に多くの人々や分野に影響を与えてきています。とても古い書物でありながら、今日を生きる私たちの必要に答え続けてくれる、古くならない常に新しい書物です。時代の厳しい批判にさらされながらも常に世界のベストセラーであり続けている本です。いったいこのような本が他にどこにあるでしょう。

次に、「聖書は新しい人生を約束する本」です。聖書は国語辞典のような分厚い書物ですが、その中心は「イエス・キリスト」(ヨハネ5:39)です。そして私たちにキリストによる新しい人生を約束しています(Ⅱコリント5:17)。その約束を手にするためには、神に背を向けている人生が「罪」によっていかに悲惨なものとなっているかをまず知らなければなりません。そしてキリストがあの「十字架」の死によって罪を解決して下さり、神と和解する道を備えて下さったことを受け入れる必要があります。「聖書」は人間が神を求め続けた知恵の結集ではなく、神がご自身から離れていった人間をキリストを通して探し求められた記録(歴史)です。「聖書」が新しい人生を約束する本であることは、実際にキリストを通して新しい人生に導かれた人たちが証ししてくれることでしょう。

最後に、「聖書は人生の指針となる本」です。人生は生まれてからこの世を去るまで選択の連続です。日常の小さな事柄から、人生の方向性を決定づける大きな事柄に至るまで私たちは決断しなければなりません。しかし、この変化の予測できないような時代にあって、確かな指針なくしてどのようにして正しい道を選択したらいいのでしょうか (詩篇119:9)。直感や霊能者と呼ばれる人に頼らなければならないのでしょうか。聖書の中に「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするのは主である。」(箴言16:9)とあります。神は私たちの造り主であるだけでなく、私たちの歩みを確かに導いて下さる主でもあります。そのお方は私たちに豊かな人生を送ることが出来るようにと確かな指針である「聖書」を与えてくださっているのです。

2.「最も重要なメッセージは?」

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネの福音書3章16節)

「聖書」は旧約と新約を合わせると分厚い書物です。あなたも一度手にされたことがあるかもしれません。でも、いったいこの本の中で最も重要なメッセージは何だろうか、と戸惑われたのではないでしょうか。そのメッセージを一言で要約するなら、「神はあなたを愛しておられます」ということになります。そのことを聖書のなかでも有名な一節(ヨハネ3:16)を用いて説明していきましょう。

まず、「神は」とあります。聖書の神は、天と地を造られた創造者であり、人格を持った生けるお方です。それに対して「偶像」は人の手によって作られた「物」であり、そこにはいのちがありません(詩篇115:4~8)。そのような物は人間あっての神々であり、人間の幸福に仕えるためにうみだされたものに過ぎません。

次に神は「愛された」とあります。神は歴史の中に介入し、その愛を明らかにされました。その愛の大きさは何によってはかることができるでしょうか。そのことについては「ひとり子をお与えになったほどに」という言葉で説明されています。「ひとり子」とは、イエス・キリストのことです。キリストは今から二千年ぐらい前にこの地上に人として誕生され(クリスマスのこと)、のちに十字架において死なれました。キリストの死は不慮のできごとではなく、神のご計画に基づくものです。つまり、神はご自身の愛するひとり子を犠牲にすることによって、その愛を明らかにされたのです。

神がそれほどまでに愛しているのはいったい誰でしょうか。それは「世」です。「世」とは私たち人間ひとりひとりを指しています。もちろん、そこには私もあなたも含まれています。人は造り主なる神に背をむけて、罪とその悲惨な結果にうめいています。連日のように報じられているいじめ、争い、殺人、不正事件などは人間が抱える醜い罪の一端を示すものに他なりません。みなが同じレベルで罪深いわけではありませんが、きよい神の前にはすべての人が罪人であり、そこには弁解の余地がありません(ローマ3:10)。

なぜ神はご自身に背を向けている者たちを愛しておられるのでしょうか。それは「滅びることなく、永遠のいのちを持つため」です(参 Ⅰテモテ2:4)。人は罪という問題を抱えたままでは「滅び」なければなりません。「滅び」とは神との断絶を意味し、それにふさわしいさばきを受けなければならないことを意味しています(Ⅱテサロニケ1:9)。なぜなら、神はどんな罪をも見過ごしにできない、きよい正しい方だからです。しかし、その同じ神は私たちに対するその愛のゆえに、私たちが負うべき罪をキリストに担わせ、身代りに裁かれることによって、私たちに和解の道を備えてくださったのです(Ⅰペテロ2:24)。

キリスト教信仰とは単に道徳や倫理を教えるだけのものではありません。人を神との正しい交わりに導き入れるもの、つまり人に「永遠のいのち」を与えるものです。そして、そのいのちが今を生きる私たちに本当の希望や平安、正しい指針をもたらしてくれるのです。

神はあなたを愛しておられます。そして、キリストを通して、ご自身のもとに立ち返るようにと、今も招いておられるのです(ヨハネ14:6)。

3.「神は本当におられる?」

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

(ヘブル人への手紙1章1~2節)

「神はおられるのか、おられないのか」という神の実存に対する問いかけは、人間にとって最も重要な問いかけです。なぜなら、もし神がおられるとするならば、その神を否定して生きることは最も恐ろしい結果を意味することになります。また逆に、もし神がおられないならば、その信仰は単なる自己暗示を意味することになり、むなしいものとなってしまいます。

聖書は神の実存を問いかけてはいません。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)で始まるように、神の実存は問うまでもない明白なことであるという前提で、神がどのような方であるかを私たちに明らかにしています。

無神論者は「神がいるなら見せて見ろ。そうしたら信じるから」と言うかもしれません。神は霊ですから、人間のように「この方です」と、紹介することはできませんが、実存を信じるに足りる証拠を示すことは可能です。

まず、神がおられることは私たちの人間性を通して分かります。人間と他の動物の大きく異なる点は、人間だけが持っている宗教性(信仰心)です。それは時代や地域を超えて普遍的なものです。原始的な生活を送っている人々も、ハイテク機器に囲まれて生活している人々も多くは何らかの信仰を持っています。なぜこのように多くの宗教が存在するのでしょうか。それは、神が人間をご自身に向かう存在として造られたからです(伝道者の書3:11)。人間が持っている宗教性は神がおられることを証ししているのです。しかし、人間はまことの神に背を向けて堕落し、まことの神の代わりに多くの神々を作り出して行きました(ローマ1:21~)。「神など信じない」という人であっても、実は神に代わる何かを信じて生きているのです。

人間が他の動物と異なるのは宗教性だけではなく、心の中に善と悪の普遍的な基準を持っているということです(道徳性)。正しいことを是認し、誤ったことに対する責任を感じ取っています。そのような判断基準はどこから来ているのでしょうか。それは神が人間を「ご自身のかたち」に造られたからです(創世記1:27)。人間が持っている道徳性は神ご自身の本性を反映しているものなのです。

次に神がおられることはキリストを通して分かります。なぜならキリストは神のひとり子であり、神の御心を明らかにし神の目的を実現するためにこの地上に来られたからです(ヨハネ1:18)。有限な人間が無限の神をとらえることは不可能です(ヨブ11:7)。しかし、その逆は可能です。すなわち、神が人間のもとを訪れて下さり、「わたしはこういう者です」と明らかにしてくださったとするならばです。神がおられるという最も確かな答えはキリストが人間の歴史の中に入って来られて、神を啓示して下さったということに見いだすことができます(ヘブル1:1~2)。

4.「イエスとはだれ?」

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14章6節)

イエス・キリストとはいったい何者なのでしょうか。その答えをイエス様ご自身の証言からみていくことにしましょう。

まず、イエス様はご自身を天地創造の前から父なる神とともにおられた方であるとしておられます(ヨハネ17:5,25)。言い換えるならば、ベツレヘムの家畜小屋における誕生はその存在の始まりではなく、はじめから存在しておられたということです。

次にイエス様は神を「わたしの父」(ヨハネ5:17)と呼ばれることによって、ご自身を「そのひとり子」(神の子)であるとしておられます。クリスチャンたちは信仰によって養子とされた者として神を「私たちの父」と呼ぶことがゆるされていますが、「わたしの父」とその特別な関係を主張できるのはイエス様のみです。イエス様が「神の子」であるとは、神に劣った存在であるとか、神によって造られた存在であるという意味ではありません。

さらにイエス様は「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:7)と言われ、父なる神とご自身を同等の存在であるとしています。そのことはイエス様が神の権限である罪の赦しを宣言しておられることや(マルコ2:10,ルカ7:48)、ご自身への礼拝を受け入れておられることからも見出すことができます(ヨハネ20:28~,マタイ14:33)。

私たちは先の証言からイエス様自身の自己認識が神であるという結論に導かれます。しかし、その証言をどのように受け止めるかについては4つの立場が考えられます。まず一つは、彼は自分が神ではないことを知っていたが、あたかもその権威を持っているかのように振る舞ったとする立場です。これだと彼は詐欺師ということになります。次に彼は妄想に陥っていて、自分を神だと思い込んでいたとする立場です。これだと彼は精神異常者ということになります。次に彼の言葉は実際彼の言葉ではなく、弟子たちの創作に過ぎないという立場です。これだと彼は伝説の人ということになります。以上の立場について反論するなら、彼の人格には不安定さや異常さはみられず、彼は常に真実な方であったということです。また、弟子たちの証言は十分に信頼できるものであったということです。

最後に残る可能性は、イエス様はその証言の通りの方であるという立場です。イエス様はご自身が行われた様々な奇蹟によってもご自身が何者であるかを明らかにされました。イエス様とは、罪人を救うために父なる神によって遣わされた「ひとり子の神」(ヨハネ1:18,Ⅰヨハネ4:9)なのです。

5.「なぜ苦しみがある?」

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

(詩篇119:71)

東日本大震災によって多くの方が亡くなられました。突然、あのような形で愛する人々を失わなければならなかったその家族の悲しみはいかばかりでしょう。私たちの人生には実にさまざまな苦しみが存在します。とても深刻なものから傍目には「そんなのたいしたことないじゃないの」と思えるものまで。しかし当事者にとっては苦しみに他なりません。苦しみには「身から出た錆」や「自業自得」といった言葉があるように、その人の罪の結果もたらされるものもあれば、無差別殺人のように誰かの罪によってもたらされるものもあります。また地震や洪水など自然の猛威によってもたらされる苦しみもあります。

自業自得のケースならばなんとか納得できる面もあるかもしれませんが、何かの犯罪に巻き込まれたり、自然の猛威によって愛する人や家財のすべて失うような苦しみを私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。神など存在せず、それらはすべて偶然であり何の意味もないということなのでしょうか。神がいらっしゃるとしてもその方は全能でも善なる方でもないということなのでしょうか。そうではありません。まず私たちは人間であって神ではないことをわきまえ、そのすべての意味が理解できるわけではないこと、また神は私たちにその苦しみをあらかじめ説明する責任や、私たちの了解を得なければ何もできない方ではないことを謙遜に受けとめる必要があります。聖書は私たちにすべてのことは神の主権を離れて何事も起こり得ず、神は全能であり善なる方であると教えています。それではなぜ神は私たちの人生に苦しみをお許しになるのでしょうか。

ここではスペースの都合で一つのポイントだけに絞りますが、それは私たちに弱さや罪の悲惨さを教え、救いの必要を悟らせるためです。誰でも悩みや問題のない時に神を求めようとしません。なぜなら神なしでも十分幸せであり、やっていけると思っているからです。しかし、挫折や試練は私たちに弱さを悟らせ私たちを内省へと導き、本当に信頼できるのは人や物ではないことを教えます。そして、私たちの直面する苦しみの多くが実は私たちの罪に起因していることを洞察できるようにさせます。聖書は、私たち人間が「罪の奴隷」(ローマ8:34)であると言っています。それはすべての人が極悪人であるという意味でありません。殆どは善良な人々でしょう。しかし、一見善良に見える人の心の中を深く探るならば、誰でも醜い利己心が覆い隠されていることに気がつくでしょう。すべての人は罪の支配下にあり、その影響を受けているのです。その罪から救うために神はそのひとり子である救い主を地上に遣わして下さったのです。苦しみは神がキリストを通してご自身のもとに立ち返るようにとの罪人に対する憐れみの呼びかけなのです。

6.「人は死んだらどうなる?」

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

(詩篇116:15)

私たちの人生において確実なことは誰も死を避けられないということです。それは明日かも知れず、20年後かもしれません。死は私たちの生とすぐ隣り合わせにありながら、人は死について語ることを「タブー視」し、それを直視できません。それは死後についての確かな答えをもっていないからに他なりません。死後については、ある人はそれは存在の消滅を意味し、死はすべての終わりであるといいます。ある人は死は終わりではなく、何かに生まれ変わるのだと考えています。また、ある人は死後に何かがあると感じながらも、漠然とした恐れの中でそのことを考えないようにしています。私たちの経験や直観では明確に答えられない領域があります。死後についてもそうです。しかし、私たちには信頼すべき神の啓示によってその答えを持つことができます。

聖書はまず、なぜ人に死がもたらされたかを述べています。それは一人の人の罪に対する裁きの結果です(ローマ5:12,Ⅰコリント15:21)。死は神が人に与えられた限界です。罪は神との断絶を生じさせ、人に死をもたらし、堕落した社会を誕生させました。しかし、神は罪の解決を提供し、ご自身と和解する道を備えて下さいました。その道は遣わされた御子キリストによって備えられました(ローマ5:18)。神はその御子を信じる者にいのちを約束しておられます。死後についての確かな希望はこの方を受け入れるかどうかにかかっています。

キリストを信じる者の肉体を離れた霊は、死後パラダイスへと行きます。それは主が十字架にかけられた犯罪人のひとりに約束されたところです(ルカ22:43)。キリスト者にとって死は、この世の様々な苦しみから解放されることであり(黙示録14:13)、主との絶えることのない幸いな交わりに入れられることを意味します(Ⅱコリント5:6~8)。やがて主が再臨されるとき、体をもってよみがえり(Ⅰテサロニケ4:16)、「新しい天と新しい地」である御国へと入れられます(黙示録21:1)。

一方、神がキリストによって備えてくださった救いを拒む者は、死後ハデスへ行きます(ルカ16:23)。その後、裁きのためによみがえり(ヨハネ5:29)、ゲヘナ(地獄)へと入れられます。そこは苦しみの場所です(マタイ25:41)。聖書を信じている人たちの中にも「地獄はない」という人たちがいますが、もしそうであるならば私もどんなに良いだろうかと思います。しかし、主ははっきりと「ゲヘナ」について警告しておられます(マルコ9:47~)。ですから、私たちは主の警告を勝手に無視して、安易な気休めを提供してはならないのです。

7.「どの宗教も同じ?」

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。

(使徒の働き4章12節)

世界には実に多くの宗教が存在します。ある人たちは「登り行く麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」という歌を引用し、結局はどの宗教も同じ神を目指しているのではないかと言います。諸宗教に見られる多様性は歴史的・文化的なものであって、すべての宗教は同じ神(究極的実在)に対する応答であるという考え方は「宗教多元主義」と呼ばれています。「八百万の神」を信じる日本人にとって、この考えは共鳴できるところが少なくないでしょう。

誰かが自分の信じていることは唯一正しいと主張すると、それはあまりにも心が狭く独善的ではないかと考える人々がいます。「寛容である」ことは大切な事ですが、真理は排他性を持っていることを見落としています。例えば、2プラス2の唯一正しい答えは4です。4も正しいが10も正しいと答える人の方がもっと「寛容である」とは誰も言わないでしょう。4が真理であるするならば、4以外は誤っていると主張することは、「寛容であるか、ないか」の問題ではありません。「寛容ではない」とは、ある宗教を信じている「人々」(信じている事柄ではなく)を非常識な形で攻撃したり、非難したりすることに対して使われるべきです。

どの宗教も同じではないですか、という考えは論理的に誤っています。Aという宗教と、A以外の宗教が同時に正しいと言うことは、先ほどの算数で説明すると、2プラス2は4であるが同時に10も正しいとする事です。異なる宗教(キリスト教、イスラム教、仏教など)が同時に正しいというのは、諸宗教に見られる類似性に焦点を当てすぎていて、決定的な相違点を見落としているからなのです。

キリスト教は、キリストの十字架の死と復活という歴史的事実を根拠とする宗教です。誰かがその歴史性を完全に否定すること出来るならばキリスト教は基盤を失うことでしょう。キリストの死は「私たちの罪のため」であり(Ⅰコリント15:3)、復活はそのキリストの死が確かに私たちの罪の贖罪を成し遂げるものであることを証明しています(15:17)。キリスト教はキリスト以外に救いの道はないとする宗教です。もし、キリスト教徒がキリスト以外に救いがあると言うならば、そのキリスト教徒はキリストの死の意味を否定していることになります( ガラテヤ2:21)。

世界各地で続いている紛争が宗教間の対立として説明されることがありますが、それは表面的な見方にすぎません。人間がかかえる罪(利害関係)という問題が人を戦争や紛争へと駆り立てているのです。人間の罪に対する解決を提供するキリストこそ神に至る道なのです。

8.「赦さなければいけない?」

もし人の罪を赦すならあなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

(マタイの福音書6章14~15節)

「赦し」は私たちの生活にとても身近な問題です。もしお互いに「赦し、赦される」ということがないならば大切な人間関係(友人、親子、夫婦、兄弟姉妹)は修復困難となり、やがて断絶に至るでしょう。聖書は私たちに「悪に悪を報いることをせず、…すべての人と平和を保ちなさい。」と命じていますが、「赦せない」という問題をどのように解決したらよいでしょうか。

赦しの問題は、「怒り」を正しく処理するということでもあります。ですから、まず最初に検討しなければならないのは怒りの原因です。すなわち、あなたの怒りは適切(正当)な怒りか、それとも自分の思い通りにならないための利己的な怒りかということです。次に検討しなければならないのは、その怒りをどのように処理しているかです。その処理法は大きく3通りに分けられるでしょう。一つは「爆発」です。誰かや物を犠牲にして怒りを吐き出す方法です。時に、それは人格攻撃や暴力となります。二つ目は「爆発」とは対照的な「黙殺」(押し殺す)です。そのような悪い感情を抱いてはいけないと、自分のなかに怒ることを許さない方法です。心の奥底に深くしまい込まれた怒りは未処理のままですから、いつか爆発するか、心身の健康を損なうという形で表れてくることになります。「爆発」は相手を傷つけ、「黙殺」はその人自身を傷つける、共に不健全な怒りの処理方法です。健全な方法は「率直」です。適切な怒りであれ、不適切な怒りであれ、怒りを率直に認めることは大切なことです。なぜなら、あなたがそれを認めようとしなくても神は心の中までご存じだからです。怒りは神がお与えになった感情の一つであり、私たちに問題が発生したことを知らせるシグナルのようなものなのです。そのシグナルに対する正しい反応は、「爆発」や「黙殺」ではなく、相手を責めない(攻撃しない)で優しく愛をもって自分の必要を相手の分かる言葉で伝えるということです。怒りをため込まないで、その都度健全な方法で処理していくことは、心身や霊的な健康にとって大切なことです。

この世の考えでは「やられたらやりかえす」という方法が一般的であり、一方的に傷つけられた方がなぜ赦さなければならないのか。それはもっともな思いです。しかし、聖書はキリスト者たちに「怒り…などを…捨て去りなさい」「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」と命じています。

罪の赦しは神の恵みです。それはキリストを信じる者すべてに約束されています。もし、罪を何らかの行いによって償い得ると考えているなら、罪の代価を軽く考えているのです。そのために「ひとり子」という代価が払われたのです。私たちが赦しを神から恵みとして受け取ろうとするなら、私たちも赦しを恵みとして差し出さなければなりません。冒頭の聖句で、主は赦すことと赦されることを切り離してならないと警告しています。深刻な傷を受けて、赦しの問題を抱えている人に、「はじめから赦しなさい」とアプローチすることは酷なことでしょう。赦しは時に長いプロセスを必要とすることでしょう。しかし、神にはできないことはありません。まず、しっかり怒りと向き合い、神の赦しの恵みを理解するとき、赦しへの一歩を踏み出すことができるのです。

9.「結婚とは?」

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

(創世記2章24節)

既婚者が婚約したカップルに「今が一番いい時よ」と、言葉かけをすることがあります。それはいったいどういう意味で言われているのでしょうか。少しのやっかみもあるでしょうが、そこには体験者たちの「結婚生活の現実はそんなに甘いものではないのよ」とのメッセージが込められています。厳しい現実はまた離婚件数の増加からもしっかりと読みとれます。

ところで「結婚」とはそもそも何でしょう。「結婚」は、神が人を男と女に造られたことに端を発します。すなわち、神がその創造のうちに定められたもので、人間が考え出した社会制度ではありません。ですから、結婚とは当事者同士の単なる約束事ではなく、結婚を定められ、ふたりを結婚へと導かれた神の御前における契約なのです(参 箴言2:17)。結婚式の誓約において司式者は「この結婚が神の御心であると確信しますか」と尋ねます。人間的な打算や恋愛感情は結婚生活の現実の前にもろいものです。結婚継続の安定した基盤は、結婚を導かれ、結婚を完成へと助けて下さる神によるのです。

幸いな結婚をするためには結婚を定められたお方のガイドブックに従う必要があります。そのガイドブックには、まず「その父母を離れ」なさいとあります。新しい家庭を築こうとしているわけですから、精神的に両親から自立をしていることが重要です。結婚は自立できない男女のもたれ合う関係ではなく、自立した者同士の協力関係です。どちらか一方やふたりが自立していなく、わがままな子どものようであるなら結婚生活は暗礁に乗り上げることは目に見えています。

次に「結び合う」ための調整が必要です。「結び合う」とは「糊付けする」という意味です。そこに第三者を割り込ませてはなりません。ふたりが結び合うためには、それぞれが過去の問題を精算し、誤った過大な期待を捨て、赦しと愛をもって向き合う必要があります。

最後に「一体となる」ことをめざす必要があります。「一体になる」とは、性的にも精神的にも霊的にもひとつになることを意味します。この一体性は初めから完成されるものではなく、それぞれが神に近づく(聖霊に満たされる)ことによって導かれていきます(エペソ5:18)。神は結婚しているふたりが身勝手に自分の必要が満たされたいと願うところから、相手の必要に心を開いてそれを満たそうとするように導かれ、満たす力をくださいます。

今日キリスト教演出の結婚式がもてはやされ、披露宴には大金がつぎこまれます。しかし、それらは幸いな結婚生活を保証するものではありません。しかし、あきらめてはなりません。結婚を定め、導き、完成へと導いて下さる神に信頼するならいつでも希望があるのです。

10.子育てで大切なことは?

親ほど子どもに良い意味でも悪い意味でも大きな影響を与える立場にいる者はありません。子どもの将来は親の手にかかっているというのは大げさかもしれませんが、親は大きな責任を委ねられていることは間違いありません。では、親がその責任を果たすためには、どんなことが大切でしょうか。

第一に、安定した夫婦関係です。なぜなら、夫婦関係は子どもが育つ環境の土台だからです。夫婦が互いに信頼し、愛し合っているなら、子どもは安心できる雰囲気の中で成長し、両親だけでなく、他の人々にも心を開いていくことができるでしょう。逆に、夫婦がいつも口論し、いがみあっているなら、子どもはその不和を耐えがたく思っているでしょう。良い仲を装っても、子どもは不和を敏感に察知し、感じ取るものです。夫婦が互いを非難し、自分を守ることで頭が一杯なら、子育てのための一致した指針を持つことも、お互いの欠けを補って協力して子どもに関わることもできないでしょう。

第二に、子どものさまざまな必要に心を配ることです。その一つは、物質的(衣食住など)な必要です。何でもほしい物を買い与えることは有害であり、必要ではありませんが、本当に必要なものが何かを見極めつつ、それを備えることは親としての責務です。二つ目は情緒的な必要です。つまり無条件の愛です。親の愛は子どもが自分の期待に応えて、良い成績や結果を出した時だけに与えられるものであってはなりません。親は子どもを愛情と拒絶の間を漂わせてはなりません。子どもはあるがままを認められ、大切にされ、愛される必要があります。三つ目は社会的な必要です。家庭から学校、社会へと活動範囲を広げていこうとする子どものたちが身につけるべき基本的な考え方や行動を指導する必要があります。たとえば、善悪の判断、人との関わりで大切なこと(正直、誠実、親切、感謝、謝罪)、ねたみや怒り、お金、性といった問題にどう対処するか、などについてです。四つ目は霊的な必要です。主は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」と言われました(マルコ10:14)。生まれながらのすべての人間は罪という問題を抱えて、神の御怒りの対象です。神はキリストを通してご自身との和解の道を備えてくださいました。その和解へと導くことはキリスト者の親だけができることがらです。また、子どもが自らの人生において神の御心を見出だし、その道を歩むことができるように励まし導くこともそうです。

最後に、子どもを授けて下さった方に助け(知恵と力)を求めることです。精神科医のポール・トゥルニエ博士は「どんな親でもみな自分の子どもに対して数えきれないほどの教育上の誤りを犯しています」と述べています。不完全な者(夫婦関係においても、子どもの必要に心を配ることにおいても)が子育てをしていることを素直に認める必要があるでしょう。

殆どの親は、親として特別なトレーニングを受けて親になるわけではありません。子どもを授かってはじめて戸惑いながらも親としの一歩を始めるというのが現状で、多くの場合、自分が育てられたように、子育てをしていることでしょう。良い面は継承し、悪い面は断ち切り、神さまの助けを頂きながら、その責任を果たしていきましょう。