苦しみに

人生に「苦しみ」はつきものです。だれも苦しみを正確に予測したり、それを選択したりすることはできません。しかし、選択できることがあります。それは、その苦しみをどのように受け止めるかです。

絶望し自暴自棄になるのか。お酒などによって現実から逃避するのか。自己憐憫に浸るのか。境遇をのろい、不満や怒りを誰かにぶちまけるのか。

それとも、神の御手に信頼して、現実を正しく受け入れ、忍耐や謙遜や思いやりを学び、さらなる人格成長のステップとするのか。

苦しみの只中にあるとき、それを正しく受け止めることは頭ではわかっていても容易ではないでしょう。しかし、受け止め方によってあなたの人生は大きく違ったものとなるでしょう。

聖書は、誰とも分かち合えないような苦しみを正確に理解し、人生をともに歩んでくださる神がおられることを示しています。一人で乗り越えられなくても、信頼できるお方がともにおられるなら、きっと乗り越えることができるでしょう。

生きることに

私たちは今日、多くの電化製品に囲まれて生活しています。そのどれ一つとして偶然にできたものはありません。いろんな部品を無造作に一つの箱に入れて、何度も振ったらその製品が出来上がったと考える人はいないでしょう。また、ある製品の目的を、完成させた後から考える人もいないでしょう。その製品の目的を知ろうとするなら、製作者に聞くのが一番です。

同様のことが人間についても言えます。聖書は、人間は“時間と偶然の産物”ではなく、“神によって、目的をもって造られた存在”であると教えています。人間の存在の目的や生きる意味は、私たちをお造りになられた方に聞く時、その答えを見いだせるのです。

結婚生活に

あるインド人がイギリス人に「あなたがたは熱くなったスープを冷たくしていくが、私たちは冷たいスープを少しずつ温めていくのです」と語りました。何の話でしょう。彼がスープにたとえているのは、夫婦の愛情です。時に、もう彼(彼女)には何の愛情も感じない、別れるしかないと思うことがあるかもしれません。しかし、あきらめてはいけません。そのような時こそ、共にスープを温めることを学ぶときです。

聖書は、夫や妻のあり方について教えています。相手を自分の思い通りに変えようとするなら、相手は変えられまいと抵抗するでしょう。しかし、二人が共に聖書の教える夫婦のあり方に近づいていこうとするなら、きっと冷たくなったスープを温めていくことができるでしょう。

終わりに

いつかは必ず訪れる「死」。それは明日かもしれません。その現実を知りながらも“縁起が悪い”として話題にするのも避けようとするのは、「死」の向こうに何があるかを知らないからでしょう。

聖書は、キリストを信じる者に天の御国に入れる希望を示し、あなたの「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」と約束しています。死はすべての終わりではなく、この地上での労苦から解放されて、本当の安息への入口なのです。それは“キリスト”を通してあなたにも備えられているのです。